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映画「わたしを離さないで」からみる臓器提供

 私がもし、自分が臓器提供のためにだけに「つくられた」人間だと知ったら、どんなことを感じるだろうか。考えを巡らせていくうちに、この映画に描かれる人物たちが表さんとすることが鮮明化してきたように感じる。

 まず、この題材は「親子」に対する究極のアンチテーゼではないだろうか。例えば、虐待や子供を道連れにした自殺など、胸が痛くなるような記事が新聞をめくると目に飛び込んでくる。なぜ親は、時に自分の子供を殺すことが出来るのか。それは親が子供を一種の所有物とみなしているからではないだろうか。子供だけ残されるのはかわいそうだからと、望まぬ、早すぎる死へといざなわれる子供は、まさに生贄である。私が指摘したいことは、作品の中の生徒が所有物として扱われていること。そして、現実にはあり得ないような話でも、それは形を変え、現代にも行われていることである。作品では保護官が生徒の親にあたり、間接的に「親子」の関係性について強烈に囃し立て、疑問を投げかけているようにも感じる。私達がこの作品に胸打たれるのは、よくできたフィクションだからではなく、実は身近に潜む闇深き深淵を覗き見ているからではないか。そして、隔離された学校で、喧嘩したり、お互いに好意を抱きあったりと、人間らしく生きる彼らに共感できるからではないか。

 また、彼らが行う臓器提供について、文学と科学に通ずる点を見出したように思える。臓器提供は多くの命を救ってきたことは自明であるが、それと同時に奪う行為であったのではないかと考えられる。日常で、手を貸したり、贈り物をしたりするのとは訳が違う。本質的に同じではないかと問われれば議論の余地があるが、それでも同じとすることに若干の違和感はぬぐえないだろう。例えば、脳死状態での臓器移植に関して、脳死を死として扱うことには賛否が分かれる。もしも脳死を死として扱わないとするのであれば、我々が行っていることは、作中で行われていることと大差ないことになってしまう。臓器だけでなく命までも奪う行為である。死は科学的に定義されると同時に文学的にも定義されると私は思う。作中の彼らは、決して死を科学的なもののみとして捉えない。文学的な視点と臓器移植のカニバリズム的側面をまざまざと映し出したように感じた。

 私がもし、自分が臓器提供のためにだけに「つくられた」人間だと知ったら、生にしがみつくと思う。それが生物の本能であるから。きっと運命を受け入れることが出来る程、私は器用ではない。