レポ村

レポート課題をもっと楽に

憲法に対する考察

 憲法は歴史の上に人類が勝ち取ってきたポジティブなものと捉えることもできるが、刻一刻と変化してゆく社会にとって柔軟性に欠けたものであり、レジリエンスのないものとも捉えることが出来るのではないか。この場合のレジリエンスは回復力と訳すのではなく、適応能力と日本語で解釈している。刑法の場合は、サイバー犯罪などの時代の変遷によって生まれた新しい犯罪に対して、比較的早く対応することが出来る。しかしながら、憲法は付け加えたり、変更したり、削除したりすることが非常に難しい。それは憲法9条の改正が長らく議論されてきていることにも係ると考えられる。そもそも日本国憲法の場合、人権の尊重や民主主義、平和主義を保護してゆくような原理で構成されているため、改変を要すること自体が稀なのであろう。それでも、移ろいゆく社会で憲法が「時代にそぐわない」と問題になるケースが実際に存在する。例えば、昨今LGBT(性的マイノリティ)についての法整備が議論を呼んでいる。政府は同性婚を認めていないが、それは日本国憲法第24条1項の「婚姻は、両性の合意のみに基づいて成立し」という文言が関与している。日本国憲法が制定された頃にはLGBTの人々の存在は広く認知されていなかった。LGBTという言葉自体も最近できたものである。残念ながら、憲法LGBTに対して無知のようである。一方、憲法は婚姻の自由について認めており、事態を複雑化させている。それは憲法の持つ「万能性」故ではないかと私は考える。1人として同じ人間がいない混沌とした集合体の中で、何とか折り合いをつけ、集合体を取り巻く社会サイクルが一見うまく機能しているように取り繕うための「万能」な規則原理。それが憲法の一面として垣間見えるのは私だけだろうか。無論、個人の尊厳を守る砦である憲法の重要性を忘れてはならないと思う。それに付け加えて、憲法の涵養も失念するべきでないと考えている。憲法を「箱入り娘」化させてはならないと思う。人権尊重、民主主義、平和主義などの強い芯を持ちつつも、時代の変化に対応し得る優れたレジリエンスを持つことが憲法の在り方ではないか。

 法というものに、効力射程と混乱なき指揮系統を確保するためのヒエラルキーが生じていると仮定するならば憲法はその頂点に君臨する。言うなれば、聖域である。そこにメスを入れるときの私たちの適切な態度とはどのようなものなのだろうか。ヒトを裁けるのが人だけであるように、人が創り出した憲法にメスを入れられるのは人だけであると考える。私はその重い責任の一部を背負わなければならないであろう。